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ポルシェ専門店,これが分かればポルシェパラノイア 821
2013.12.31

知覧特攻平和会館のパンフレットです。
年中無休で9時から17時まで開館していますが入館は16時30分迄です。
9時30分に錦江湾から桜島を望むホテルを出発し、約1時間で知覧に到着しました。
時間に余裕をもって訪ねましたから入館して展示室に入る前にロビーで語り部のおじさんの話を聞くことができました。
館内に支那事変当時の写真が展示されていて鎮守の森で写した出征兵士の壮行会の出席者2,30人の写真で洋服を着ている人は2人か3人程度で、あとの人たちは皆着物姿であったことを考えると、止むに止まれぬ事情があったにせよ米英とのこの戦争は相当無理があった。
戦争末期には鉄の不足から有田焼で作られた手榴弾が戦地に送られたとケース内の実物を見ながらの説明でした。
因みに瀬戸物で作られた手榴弾の実物はここにしかないそうです。
パンフレット右下の写真は出撃する特攻機に手折った桜の小枝を振る女学生ですが、皆セーラー服にもんぺ姿です。

鹿児島鹿児島




特攻隊員が出撃するまでの数日間を過ごした三角兵舎です。
地表に出ているのは屋根だけの半地下で当時松林の中に擬装を施し点在したものが復元されていました。
中央の通路を挟んで一段高い板敷きで藁の敷き布団に国防色の軍隊毛布で片側に8名ずつ16名が寝起きするだけの空間だけです。
各地から集まった特攻隊員は出撃迄の数日間をこの兵舎で過ごし、家族宛の遺書や遺詠、寄せ書きをして出撃の日まで待機したそうです。
いよいよ特攻の日は早朝、薄暗い裸電球の下で当番兵が運んでくれたこの世で最後の朝食を炊きたての白いご飯に味噌汁、浅草海苔に生卵ですませ出撃したと記されています。
敗戦間近な本土では白いご飯だけでも精一杯のご馳走だったはずです。

鹿児島鹿児島



昭和60年から知覧特攻平和会館の建設が始まった時、周辺も整備され町はずれの湊橋から観音堂までの道路に灯籠を立てることになったそうですが、そこに至るまでいろいろな障害を乗り越えて完成したそうです。
灯籠は特攻平和観音に祀られている特攻隊員千三十五柱と同じ数を目標に浄財でたてられたそうです。(佐藤早苗著・特攻の町知覧・潮書房光人社刊)
陸軍の指定食堂「富屋食堂」と特攻隊員の母と慕われ知覧特攻平和会館建設の礎となった女主人鳥濱とめさんが慈母の心で特攻隊員に安らぎの場を提供した「富屋食堂」です。

昭和20年3月20日に陸海軍協定で第一次航空総攻撃が4月6日と決定
同年6月3日から7日迄の第十次航空総攻撃まで続きました。
知覧からの特攻が開催された昭和20年3月26日から敗戦1ヶ月前の7月19日までの約3ヶ月、116日間のうち61日間に亘り沖縄の空に向け特攻機が出撃しています。
3月は連日、4月は9日、5月は11日、6月は18日、7月は1日を除き毎日出撃していますが、多くの特攻が敢行されたのは下記の航空総攻撃です。
4月12日の第二次航空総攻撃は10隊46名、
4月16日の第三次航空総攻撃は11隊51名、
4月28日の第五次航空総攻撃は12隊49名
5月24日から27日迄の第八次航空総攻撃は4隊で、うち義烈空挺隊の88名と他3隊49名、5月25日は19隊71名が出撃しています。

第六次航空総攻撃の翌日5月10日に何故か単機で22才の中尉が出撃しています。

歴史は繰り返される。
戦争を体験しない戦後世代が3/4となりました。
この地を訪ね改めて平和の尊さを実感し若き英霊に合掌しました。

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ポルシェ専門店,これが分かればポルシェパラノイア 820
2013.12.30

知覧特攻平和会館に向かう真っ直ぐな通路です。
右側に「とこしえの銅像」と知覧特攻平和会館奥に屋根だけ地表に出した三角兵舎があり左側に特攻基地知覧の碑文などと共に南州神社の宮司鶴田正義氏の歌碑がありました。
  還るなき機をあやつりて征きしはや
  開聞よ母よさらばさらばと
特攻隊員の心境を偲ぶ慟哭の和歌です。

沖縄に最も近い基地知覧に陸軍の特攻本部が設置され439名が、そして周辺の万世、鹿屋、都城、新田原、大刀洗と台湾の特攻基地からは知覧の指令で1036名の若者が沖縄に向け飛び立ち爆装のまま敵艦に突入する百死零生の特攻を敢行しました。

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知覧からの特攻隊の出撃開始は昭和20年3月26日から敗戦一ヶ月前の7月19日まで3ヶ月に亘り敢行され20代の若者1036名が散華しました。
前々回のブログに16、7才の白虎隊士19名が飯森山で自刃した一ヶ月後に会津藩は降伏し鶴ヶ城は開城したことを書きましたが、特攻機の搭乗員は白虎隊士と同年代の17才が20名、18才が109名、19才が110名、計239名の少年飛行兵が尊い命を特攻として捧げました。
特攻機は知覧を発つと先ず薩摩半島南端に聳える922mの開聞岳、別称薩摩富士を目指し、眼下の美しい山容と本土に別れ告げる最後の敬礼をし“還るなき機を操りて”沖縄の空に向かいました。
陸軍一式戦闘機隼は二百五十キロ、九九式双軽爆撃は五百キロの爆弾を抱え沖縄までの650km、約2時間をどのような思いで飛行したのでしょう。
最後には飛ばす飛行機も不足し昭和11年に採用された95式練習機、全装備重量1,400kg、350馬力、最大速度240km、航続時間3時間30分の複葉機に二百五十キロの爆弾を装着し出撃しています。

2007年に公開された映画で石原慎太郎制作の「俺は、君のためにこそ死ににいく」の撮影に使用されたレプリカの隼戦闘機です。

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零式艦上戦闘機52丙型で昭和20年5月鹿児島県甑島手打港約500m沖に不時着し35mの海底に沈んでいた機体を昭和55年6月に知覧町が引き揚げ知覧特攻平和会館に展示していました。
搭乗員は助かりましたが、戦後不幸にも船舶事故で亡くなられたそうです。
無残な機体を見た子供が飛行機の幽霊だと言ったそうです。
語り部のおじさんの説明でした。

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ポルシェ専門店,これが分かればポルシェパラノイア 819
2013.12.24

先々週の土曜日12月14日はポルシェクラブ六本木が主催する今年最後の富士スピードウェイ レーシングコースにおける走行会スポルトファーシューレ6が開催されました。
入会希望者2名の体験走行がイベントに花を添え更に好天に恵まれました。
ピットロードに立てられたクラブの幟は最良のコンディションの下で軽やかにはためき、丁度一ヶ月後に八千穂レイクで開催される氷上トレーニングスポルトファーシューレ7の予行練習ができました。

イベントの翌日はいつも宿泊するホテルを早朝に発ち羽田空港発の鹿児島行きに搭乗しました。
当日は錦江湾越しに桜島を望むホテルに投宿し翌16日(月)は知覧に向かいました。
鹿児島空港から70km余、江戸時代の武家屋敷が町の南側に現存する落ち着いた家並みです。
町を抜け県道27号線のなだらかな坂の途中から知覧平和記念会館に続くアプローチの両側に沢山の石灯籠が等間隔に並んでいるのを目にし厳粛にして畏敬の念を強く感じました。

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大東亜戦争末期敗戦濃厚な戦況の挽回と本土決戦迄の時間を長引かせるため1945年昭和20年4月1日沖縄本島への米軍の上陸を機に陸軍特別攻撃隊が編成され250kg爆弾もろとも敵艦に突入する百死零生の攻撃が敢行された陸軍航空隊基地知覧です。
転戦(敗退)と玉砕が続く戦局打開は尋常な手段での挽回は困難と軍上層部は操縦士自らの命を盾に爆装機もろとも敵艦に突入することが唯一の方法で出ては再び還らぬ戦法特攻作戦の志願者を募りました。
二列横隊の隊員を前に志願する者は一歩前への号令は各自の意志に任されているように思えて拒否するには相当の覚悟が必要で志願せざるを得ない雰囲気であったようです。
緒戦のベテラン飛行士の志願から次第に人も飛行機も不足を来たし17、8才の少年兵が操縦桿を握り本土から最も沖縄に短い特攻基地知覧を飛び立ったのです。

右手は永遠の平和を、左手は秘められた固い決意を表現した特攻銅像「とこしえに」です。


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銅像と知覧の碑文です。

知覧
薩南の涯の山の中の静かな町
と・号(特攻)要員と呼ばれ若者や
少年たちが、青春の最後の幾日かを
過ごした町。
祖国の難に一命を捧げた隊員たちの
特攻機が、二百五十キロの爆弾を抱えて
よろけるように飛び立っていった町。
そんな隊員や、それを取りまいた人びと
の、さまざまな思いが罩められて、
いる町、知覧。
今日われ、生きてあり

神坂次郎 /1927年3月2日和歌山市出身
1943年4月陸軍航空学校入校
知覧特攻基地から小牧飛行基地で終戦

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ポルシェ専門店,これが分かればポルシェパラノイア 818
2013.12.20

今日の打ち合わせは11時です。
少し早めに投宿した東山温泉の“向瀧”を発ち、戊辰戦争で圧倒的に優勢な西軍に戦いを挑んだ会津藩士とその中にあって16,7才で編成された白虎隊が自刃した飯森山をお参りしました。
写真中央、なだらかに左裾を伸ばしているのが飯盛山です。
飯森山から望む鶴ヶ城はこの時期春霞で特に見分け難く石像の白虎隊士が望んでいる方向が鶴ヶ城です。と碑文に記されていました。

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写真中央から右寄りの森の中、ラジオ放送用のアンテナの先に鶴ヶ城が見えます。戊辰戦争時飯盛山から眺めた城下は戦火の炎の中にあり前夜の雨と空腹、敗走の中で16、7才の少年達20名が目にした戦況と自刃に至る心境は現在の社会では想像し難いことですが藩校日新館に入学前の6才から9才までの藩士の子弟の什の掟を読むと幾つかは恥を禁じ得ません。
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

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16才、17才の少年と自刃が気になり先週“知覧”を訪ねました。
以下は白虎隊の墓石と碑文です。

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ポルシェ専門店,これが分かればポルシェパラノイア 817
2013.12.19

国・登録有形文化財第四号菊の間から眺めた回遊式庭園です。
見上げると上部は岩肌が露出した傾斜地の一番上部が菊の間ですが玄関から数段階段を下り、旅館名由来の“狐湯”入り口先の渡り廊下を経て踊り場を設けた二つの階段を上りきった最上部の部屋です。
東南に面した窓辺の手摺り越しに見下ろすと母屋の屋根が見えますから傾斜地を活かし建てられていることが分かります。

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ポルシェクラブ等団体で宿泊する場合、翌日の行程や費用を考慮するとホテルを利用することが多く、こうした純和風の旅館で掛け流し温泉に浸り美味しい料理にしたずつみし、寛ぎ楽しむことはなかなか難しいこともあり、今回のこうした旅は正解でした。
階段踊り場に面した散策路から菊の間の手摺りが眺められますが、この踊り場の下に続く湾曲した階段を下りきると左手が“さるの湯”で右手ガラス戸越しに渡り廊下と池越しに母屋が見渡せます。
右手に続く傾斜地からの湧き水が軒先でせせらぎとなって泉水に流れ込み、渡り廊下の軒の雨水は樋を通さず滴のまませせらぎに注がれるよう造作されています。

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会津藩政時代、藩指定の保養所の由来の名称“きつね湯”です。
“さるの湯”に比べ少し熱めで湯口は湯ノ華が咲いています。
熱めが手伝ってか誰も入っていない浴室を写してから一人風呂で寛ぐことができました。
湯船から溢れでる豊富な湯で床全体が暖まり、火照った体のまま磨き揉まれた床に仰向けで横たわっていると眠気を誘う心地良さでまさに至福のときです。

1873年、明治6年に藩政から引き継ぎ140年間、明治、大正、昭和と傾斜地を活かした回遊式日本庭園を囲むように数寄屋建築が建てられています。

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